「南京大虐殺は無かった、中国のプロパガンダだった」という理由

174 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@転載は禁止 [] :2015/09/13(日) 01:41:54.84 ID:95b9u0ON
 南京大虐殺は無かった、中国のプロパガンダだった。

1.毛沢東は生涯に一度も、「南京虐殺」ということに言及しなかった。毛が南京戦に触れているのは、
南京戦の半年後に延安で講義され、「持久戦論」としてまとめられた本の中で
「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみ。30万市民虐殺などという
いわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、
毛が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解である。

2. 南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置した。
国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によれば、
南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において
300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されている。
しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」
「捕虜の不法殺害があった」と述べていない。

3.南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が「Documents of the Nanking Safety Zone」
として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の出版社から刊行されている。
それによると、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、
占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されている。この記録からすると30万虐殺など、ありえない。

4.さらに「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されているが、
殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみ。その1件は合法殺害と注記されている。
こういう記録と30万虐殺とは、到底両立し得ない。
(「温家宝国務総理閣下への質問状」より)


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372 :名無しさん@1周年 [] :2015/03/29(日) 05:59:27.30 ID:SMy/avpY0 (2/6) [PC]
昭和41年9月に岸信介元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台し、蒋介石と面談している。そして面談の最、その5名の中の一人である田中正明氏が松井大将の秘書であったことを思い出した蒋介石は、田中氏の手を堅く握り締めて涙を流しながら
「南京に虐殺などなかった。松井閣下にはまことに申し訳ないことをした」
と告白している。この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然なる事実であり、南京事件なるものは一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である(72頁)。
『日本人の知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』深田匠著 高木書房



388 :名無しさん@1周年 [] :2015/03/29(日) 06:19:00.84 ID:SMy/avpY0 (5/6) [PC]
1966/9 昭和41年私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
 「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
 ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
 私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋介石)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。


389 :名無しさん@1周年 [] :2015/03/29(日) 06:21:10.43 ID:SMy/avpY0 (6/6) [PC]
悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。
 周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。
 蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。
 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く



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1+14 :ちゃとら ★ 転載ダメ©2ch.net [mail↓] :2015/03/28(土) 21:34:29.69 ID:???*
 昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、
約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされる「南京事件」。
犠牲者の規模や事件の存否を含めて論争があるが、中国は犠牲者数を30万人と主張、日本軍の〝蛮行〟として声高に喧伝している。
しかし、陥落直後の南京にいた日本軍の元兵士に取材すると、「南京大虐殺30万人説」とは異なる様相が浮かび上がる。
「陥落後の南京は和やかだった」「虐殺はでっち上げ」-。
「反日」という政治的思惑を帯びた中国の攻勢に負けず、元兵士らの証言をはじめ当時の史料や状況を冷静に検証し、歪曲・誇張に満ちた歴史を是正する必要がある。
「日本を取り戻す」を旗印に政権を奪還した安倍晋三首相は2月、南京事件に対する海外からの誤った批判に正当な理解を得るよう発信していくと明言した。
この「歴史戦」に敗れれば、日本の名誉は永遠に汚され続ける。

■「城内に遺体はなかった」

 「城内は空っぽでした」。昭和12年12月13日の南京陥落後、南京城に入った城光宣(じょうこうせん)さん(99)に昨秋、城内の様子を尋ねた際の第一声だ。

  兵士はおろか、住民の姿さえいない無人地帯だったというのだ。
住民たちは、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。

 城さんは熊本で編成された陸軍第6師団歩兵第47連隊に所属する獣医務曹長。
第6師団も加わった南京攻略戦の戦闘には直接参加していないが、戦闘部隊と行動をともにし、間近で様子を見てきた。
南京は他地域と同様に外敵の侵入を防ぐ目的で周囲を堅固な城壁で囲まれていた。城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった。

 12年12月10日に始まった南京総攻撃。第6師団は南京城南側から攻撃に加わった。
「砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ、壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」

 城さんは77年前の様子を克明に語った。城内で中国軍の遺体を目撃したかどうか尋ねると、首を横に振って否定した。
それでも上海から南京まで進軍する途中では道端で中国軍の遺体を目にしたという。
「そりゃ交戦しながら進むけん、こっちもあっちにも遺体はありました」

 南京への進軍途中にも「日本軍は虐殺行為を働いた」とも言われるが、城さんは「女や子供、年寄りの遺体はみたことはなか」と明確に否定した。

 南京攻略時の師団長は戦後の南京軍事法廷で、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
虐殺はあったのか否か。同様の質問を繰り返したが城さんは憤りを交え、同じ答えを繰り返した。

 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」
つづく

 http://www.sankei.com/west/news/150327/wst1503270007-n1.html?view=pc


3+3 :ちゃとら ★ 転載ダメ©2ch.net [mail↓] :2015/03/28(土) 21:36:41.05 ID:???*
>>1
■日本兵相手に商売も

 《日本軍は南京占領直後から1カ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした》

 戦後の東京裁判判決はこう認定した。さらにこうも断定した。

 《何ら口実もないのに中国人男女や子供少なくとも1万2千人を最初の2、3日で殺害し、死体は大通りに散乱した》

 元兵士が見た南京はどんな様子だったのか。

 「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きるという印象でした」。
占領後最初の6週間の一時期を城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹、原田要さん(98)はこう振り返った。

 陥落後、城内の飛行場に降り立った原田さんの印象に残るのは、日本兵を相手に露店で商売を始めるなど日常の生活を営む住民らの姿だった。

 この証言には重要なポイントがある。陥落後間もない城内では、すでに住民による露店が立っていたという点だ。

 南京攻略戦で城内に残った住民らは一時、非武装中立地帯の「安全区」に逃げ込んだが、
日がたつにつれ安全区から出てきて平穏さを取り戻している。原田さんの目にはそう映った。

 中国が喧伝する「南京大虐殺30万人説」が事実ならば、当時は城内で日本軍による住民への虐殺や暴行、強姦が繰り広げられていたはず。
そんな阿鼻叫喚の現場で、和やかに敵兵相手に商売をすることがあり得るだろうか。

 平成19年12月、東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」でも、8人の元将兵が同様の証言をしている。

 「敵兵は1人もおらず、城内はガランとして人影がなかった。100メートルほど行くと、1人の老婆が紙で作った手製の日の丸でわれわれを歓迎してくれた」
(12年12月14日に入城し、すぐに城外で宿営した元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長、古沢智氏)

 「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」
「3回ほどサイドカーで城内をくまなく見て回ったが、遺体や虐殺の痕跡は目にしなかった」
(12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清氏)

 「12月14日ごろには(城内に)散髪屋や立ち食いそば屋など、早くも住民が商売を始めていた」
(安全区で掃討・警備を担当した元陸軍第9師団歩兵第7連隊の伍長、喜多留治氏)

■日本兵を悩ませた「便衣兵」

 平穏を取り戻した城内でも、日本兵にとって掃討すべき〝脅威〟があった。
民間人に偽装し、私隠れ戦闘員として日本兵らを襲った中国の「便衣兵」だ。

 3等航空兵曹の原田さんは、便衣兵を処刑する場面を見たことがあった。

 休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、日本陸軍の兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。
川の中に逃げ込んで撃たれたり、泣きながら命ごいしたりする男もいた。

 原田さんは言う。「虐殺と言われれば虐殺かもしれない。でも便衣兵はゲリラだ。日本兵がやられる可能性もあった」

 当時、日本軍は南京だけでなく、各地で便衣兵に悩まされた。
堺市在住の元海寿祐さん(51)は、日中戦争で出征した父、寿一さん=平成2年に72歳で死去=から便衣兵に出くわした体験談を聞いたことがある。

 寿一さんが出征先で仲間と歩いていて、怪しい中国人の男を呼び止めた。
男は便衣兵だった。走りながら腋の下から銃口を向け、仲間が撃たれて負傷した-。

 元海さんは「父は戦場の現実は悲惨なものだと言っていた」と振り返り、南京事件についてこう話した。

 「『大虐殺』で言われるようなことをやればすぐ情報が広まる。(将兵は)処分されるはず、と大虐殺説を否定していた」
つづく


7+1 :ちゃとら ★ 転載ダメ©2ch.net [mail↓] :2015/03/28(土) 21:38:53.08 ID:???*
>>3
■「ギャクサツヲ禁ズ」

 「南京大虐殺30万人説」で言及される日本軍の残虐性。しかし、軍には厳しい規律があったという数々の証言もある。

 「十月五日 大隊長注意 リャクダツ、ザンサツ禁ズ」

 昭和12年に日中戦争に参加した元陸軍第5師団歩兵第21連隊の下垣定信さん=平成8年に83歳で死去=が所持していた手帳には、上官からの命令が日付とともに記されている。

 「上官も厳しかったし、軍紀も厳しかった。自分勝手は許されなかった」。
生前、下垣さんは長男(75)にこう話したという。南京攻略戦には参加していないが、日中戦争勃発直後に出征した際の体験談だ。

 北京近郊の河北省のある城内に駐留していたと思われる同年9月2日の記述がある。
「将校注意 便衣隊(兵)ニ注意 衛兵務ム者ハ城門出入者ノ身体検査、但婦人ヲ除ク」

 10月1日には、「自ノ銃ヲ以テブタ、ニハトリ等ヲ射殺モ他ニキガイヲオヨボスノオソレアルヲ以テ厳ニ注意ヲ要ス」。

 同月4日は「連隊注意 一、現在地付近ハ住民居存有ルニ付キギャクサツヲ禁ズ…」と記されている。

 長男は「手帳を見ていると、日本軍は決して無秩序な軍隊ではなかった。
父も戦後、『南京大虐殺』を否定していた。今の状況は悔しい」と語る。

 中国は毎年12月13日、南京市の南京大虐殺記念館で犠牲者の追悼式典を行ってきたが、習近平政権は昨年、「国家哀悼日」に〝格上げ〟。
米国の公立高校の世界史の教科書では、南京事件の犠牲者を「40万人虐殺」と歪曲されていることも明らかになっている。

■東京裁判で「自虐史観」すり込まれ

 南京攻略戦は東京裁判で突如として「南京大虐殺」に変貌した。
その後、中国側は「30万人を虐殺した」と世界に向けて喧伝し、今も日本をおとしめる格好の材料としている。
日本国内で30万人説を支持する声は極めて少ないものの、「虐殺があった」とする説は多く、数百~20万人と幅がある。
事件の存在すらないという「否定説」もある。

 拓殖大の藤岡信勝客員教授は「当時の記録にもあるように一部の非行兵士による犯罪行為はあったが、
日本軍が組織的に民間人らを虐殺したということは事実として確認できていない」と語る。

 中国軍が退却時に「敵に糧を与えない」との名目で民家を焼き尽くし、略奪を行う「清野作戦」による被害も多かったと指摘。
便衣兵についても「戦闘を放棄した捕虜とは違い、あくまでも戦闘継続中の兵隊だった」と強調する。

 これまでに日本側が戦後の歩みの中で、生存者から聞き取りを行うなどして事実を究明し、
「南京大虐殺30万人説」に反論して国際社会にもアピールする機会は何度もあったはずだ。
しかし、東京裁判によって日本人にすり込まれた「自虐史観」の影響は強く、積極的な検証や反論の動きは鈍かった。
結果として誤った史実が国際社会にも広がっている。

 もはや当時を知る人たちも多くは鬼籍に入り、健在の人でも100歳を目前にしている。藤岡客員教授は言う。

 「歴史のねじ曲げを放置したのは私たち国民、そして政府の責任。戦後70年の今、真摯に見つめないと歴史の真実は見えてこない」

おわり



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75 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 22:59:04.46 ID:+XF7kmno0 (1/2) [PC]
民主党・社民党の前身日本社会党がシナ共産党に媚び、『日教組+総評(連合)』と共同で虚偽捏造までして造った 南京大屠殺記念館
「南京大虐殺記念館は日本人が造った」(H19.1.29)


【論説】 自民・深谷氏 「南京、人口20万人だったのに30万人虐殺後に人口25万人に?」「虐殺記念館、日本社会党が建設進めた」★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1332721295/

606 :名無しさん@12周年:2011/10/04(火) 20:48:40.68 ID:OrKg1wyf0
■「南京大虐殺」ってホントにあったの?

 南京戦に参加した数万の日本軍将兵も、取材にあたった約120人の新聞、雑誌社の特派
員やカメラマン、その他占領直後、南京に入城した西条八十、草野心平、大宅壮一、小林秀雄、
野依秀一、杉山平助、林芙美子、石川達三といった著名な詩人、評論家、作家だれ一人として
見たこともなく、噂すら聞いたこともない事件であります。

▽しかも日本人だけではなく、国際都市南京は、占領後も残留民、第3国人が50名以上もおり、
揚子江には米英の艦隊がおり、ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューンA・Pの特派員、
パラマウントのカメラマン等、外人記者5名もいたのですが、誰も大虐殺など見ていないし、
南京大虐殺などというような記事は、どこにも流布されていない。

★なぜ、9年も経って東京裁判で、「南京事件」は捏造されたの?


アメリカは東京や大阪や都市を空襲して15万人以上の日本の民間人を大虐殺した。
広島と長崎に原爆を投下して15万人以上の民間人を大虐殺した。
それを上回る虐殺を日本がやったということを作る必要があったからである。
冗談のようだが、30万人というインチキ数字はここからきている


結論:「南京虐殺」とは悪質な反日与太話である  日本人でこれをいうやつは他意がある。気をつけろ



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216 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:16:19.00 ID:r5OxO10m0 (2/5) [PC]
評論家の石平さんが言っていたが、
彼の北京大学時代の南京出身の同級生に訊いたら、
家族もだれも全然しらなかったらしい。
南京では先祖代々住んでいる人が大勢居るんだってw


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341 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:29:31.28 ID:yrTvYqmd0 (3/7) [PC]
一番乗りした日本歩兵部隊も、南京大虐殺などやってないし、目撃もしていない。
それどころか到着した時、すでに南京には死体の山があったと証言してる。

 シナ軍の空室清野作戦
シナ軍は、南京陥落を前に「空室清野作戦」で、公共物や公邸や私邸などを焼き払った。
日本軍が利用できそうなあらゆる物、あらゆる家、あらゆる施設を破壊し、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
この損害は、2千万ドル以上にのぼり、これは南京攻略に行われた日本軍の空襲による損害よりも大きく、おそらく占領後の日本軍部隊によって生じた損害にも匹敵する額。

犬飼總一郎(第16師団通信班長)の証言。
「南京に向かう追撃戦で、自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫、29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も中国兵による掠奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれがもの凄いものか、全く想像外であった」

第19旅団長草場辰巳少将の証言。
「隆平県城になだれこんだシナ敗残兵は、まず住民から衣類を奪って便衣となり、次に食糧を奪い、財宝を奪い、明け方を待って逃げ出す算段で、城壁がすでに日本軍によって占領されているのも知らず、
城内は敗残兵による掠奪、暴行殺傷等で阿鼻叫喚のちまたと化し、日本兵はただしばし呆気にとられて、この地獄図を城壁から眺めていた」

ダーディン記者の証言。
「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する掠奪が拡がっていた。掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」
「(12日)夕方には退却する中国軍は中国軍部隊は指揮官もなく暴徒と化していた。中国軍は完全に潰滅した。」

東京日々新聞(現毎日新聞)の記事。(南京に残留していた第三国の者の日記を掲載)
「12月12日、シナ敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく恐怖におちいる」(12・12・20)

岡田通訳官の証言。
「城内の店は空き家になっていまして、中国兵が逃げるとき掠奪したのか、日本兵が入ってから掠奪したのか、掠奪の跡がありました。日本兵は食べ物は掠奪したと思いますが、その他は中国兵がやったようです。
昭和13年3月に維新政府が出来ると、私も南京に行きましたが、泥棒市にはたくさんの豪華なジュウタンや骨董品があり、これらは、その時(シナ兵が)掠奪したものだと思います。この時私も居を構えるためジュウタンを買いました」


362+1 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:32:05.67 ID:yrTvYqmd0 (4/7) [PC]
 中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、 歓声をもって迎える南京市民ら。

 市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである


(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)
 http://livedoor.blogimg.jp/hoshusokho/imgs/6/4/648d54fc-s.jpg
648d54fc-s



398 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:36:45.94 ID:yrTvYqmd0 (5/7) [PC]
「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というベンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。
「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。
外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。

彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、
首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。
誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。
指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。
あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。

国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。
外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。

外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。
外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。

外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。
そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。
南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。

私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。

 http://ameblo.jp/daily-china/entry-11415804641.html


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454 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:46:27.69 ID:C0bxEujY0 (5/6) [PC]
南京で虐殺を見たという元帝国陸軍の軍人の証言者は
10年程前に急に出てきて、日テレの深夜番組でも放映された

でも、その人を調べたら、中帰連の方で、中支那方面軍ではなく
南京攻略戦にすら参加してなかったのが発覚して以来ダンマリ続けてる


468 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [↓] :2014/09/02(火) 23:48:34.78 ID:AzAYqrXF0 (3/6) [PC]
南京大虐殺に関しては当時首都だった南京を落とされた中国政府が、世界から同情票を集めるためにでっち上げた話だよ
じゃないと日本は南京では大虐殺を行ったのに他の占領した年では大人しかったのかというおかしな話に繋がってくるからな、
日本は鼻から中国政府と和平交渉を行い(目的は満州の確約)世界的にもそれが正当なものをアピールする必要性があったから、
虐殺なんぞする意味が全くなかった。


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667 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 00:29:48.40 ID:wkrVXNBu0 (6/8) [PC]
証拠に安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは「日本軍
が安全区を設けて民間人を傷つけなかったことを深く感謝いたします」とい
う感謝状を松井大将に手渡しています。

また南京占領後、日本軍の指揮のもとで南京の中国人団体が、死んだ中国兵
の埋葬作業を行いました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、
その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。つまり民間人の
犠牲者がほとんどいなかったことをこの資料は証拠づけています。

ところが南京占領が確定すると多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て、中国市民
を殺して服を奪い 、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込み、安全区内で
強姦や略奪、殺人などを行いました。

そして民間人の服装で日本軍人を背後から攻撃(便衣隊)しました。その数
数千人も居り、日本軍から多くの犠牲が出ました。そのために日本軍は彼ら
を見つけ出すために掃討作戦を行わなければなりませんでした。

民間人の格好をした中国兵を見つけ出すために、数万にも及ぶ安全区の住民
の手を検べました。もし兵士ならば度重なる銃の発射でタコが出来ています。
それだけでは間違いもありますので、南京市内に家族がいるかどうかを調べ
ました。もし兵士ならば南京市内に家族はいません。

このようにして日本軍は兵士と市民を区別し、逮捕しました。もちろん人間
のやることだから誤認逮捕もあったとしても、その数はわずかだと思われま
す。このように南京占領において日本軍によって殺された民間人はほとんど
ゼロに近いと言っても過言ではありません。

それでは何故南京大虐殺というオドロオドロシイ言葉が一人歩きしたのか?
アメリカのジャーナリストであるベイツが「日本軍による南京での市民
虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。

彼はアメリカの命令で蒋介石率いる中国国民党の顧問をしていました。彼の
使命は「中国市民の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に広め、アメリカ世論
を喚起させてアメリカが日本と戦争するための正義の旗を立てることでした。

しかしその他の良心あるジャーナリストたちは中国兵らの残虐な悪事の数々
を記述しています。ティルマン・ダーディン記者は南京で日本軍を迎える
中国軍の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」としてほとんどすべての
建物に火が付けられ、多くの中国人が死んだと記述しています。

また南京のアメリカ領事館のジェームズ・エスビーが「日本軍入城前の最後
の数日間に中国兵は略奪、強姦、殺人と狂わんばかりの狂態であった」と
報告しています。



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725 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 00:45:41.07 ID:wkrVXNBu0 (7/8) [PC]
11月13日
支那軍は日本軍が長沙に迫っているとの噂を信じ、長沙の街を略奪・放火した。
火は二日間燃え続けたが、日本軍が来なかったため、日本軍に犯罪を転嫁出来なかった。
仕方なく、蒋介石は警備や公安の責任者を銃殺刑に処した。



764+1 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [↓] :2014/09/03(水) 00:55:18.24 ID:T7gsE4PL0 [PC]
中国は30万人殺されたと言ってるが、証拠として出される物は漏れなく捏造や全く関係ない写真だった
中国兵が中国人を殺してる写真を日本兵の仕業と言ったりもしてる
当時の映像も僅かだけ残っているが虐殺が行われたような形跡は一切ない
そして当時の南京の人口は多くて20万人
日本の兵数は決して多くなかったのにどうやって30万人殺せたのかな?


772 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [↓] :2014/09/03(水) 00:59:20.82 ID:Q/y2/klY0 (2/2) [PC]
>>764
どー考えても普通の知能あればネタって分かるよなw


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915+1 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 05:21:35.97 ID:e5Hr02Vh0 [PC]
20万人は嘘だったようだな。


200人くらいは犠牲者が出たかもしれないが。


917+1 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 05:28:13.54 ID:9NnrXm+x0 (2/4) [PC]
>>915
証言によると便衣兵を数千人処刑したのが正しいようだ
死体は南京市街の路上に埋めてあるそうな
掘ったら出てくる


921+2 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [↓] :2014/09/03(水) 05:33:15.45 ID:+pY3qD/A0 (4/7) [PC]
>>917
それは怪しい

間違いないのは逃げるときに脱ぎ捨てられた数万のシナの軍服w

後から味方の鉄砲の弾が飛んでくるから後退できなかったんだよねw


922 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 05:36:05.06 ID:9NnrXm+x0 (3/4) [PC]
>>921
だから便衣兵ね
便衣兵というのは、軍人が負けそうになったとき私服に着替えて降参して隠れること
これを放置すると夜中にもう一度軍服に着替えて武器を持って襲撃して来るので処刑して良い

交戦規定や国際法は軍服を来た軍人だけに適用されるので、国際法上の捕虜にあたらない
だからこの件は東京裁判で問題にしようがなかった


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977 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 07:22:47.19 ID:lIiV1O0F0 (2/6) [PC]
かなり前の事になるが、中国に対してODA見直しの話が出た時の事。
それから少し経って、あるニュースをラジオで聞いた。
【中国が南京大虐殺記念館をユネスコの世界遺産に登録申請する】
【それについて登録に必要な記念館の土地面積を3倍に拡張する工事を始める】

「こ、ここまであからさまにやるのか?」・・・さすがにブルった。

>ですから、「南京で発生した事件」と「南京大虐殺」は分けて考えなければいけません。
>わかり易く言うと「南京大虐殺は虚構であり、悪質なプロパガンダである」と認めたうえで、
>南京でどのような事件が発生したのかを論じる必要があるという事です。
>ここがポイントなんですが、南京大虐殺否定論というのは、
>中国の主張するような数十万市民を大量に殺戮したという事件は発生しなかった、という論なのです。

論点(1) 南京事件と南京大虐殺の区別
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page022.html

何故30万人じゃなきゃ駄目なの?
彼ら中国人は、数が多い方が日本人の贖罪意識も強くなると思っている。
数に疑問が投げかけられるとさらに増やした。

>その中国共産党が、半世紀近くも経た今日「南京では40万人の人々が虐殺された」
>(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)162ページ)
>「動かぬ証拠は山の如く、言い逃れは許さない」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 
>邦訳(青木書店)60ページ)と声高に叫び始めたのは一体どうしたことなのだろうか?
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason11.html



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995 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 07:52:01.85 ID:lIiV1O0F0 (5/6) [PC]
前に見たのですが、NHKのテレビ番組で

「そして日本は中国を侵略し・・・」というナレーションをかぶせて
日本軍が大陸を行軍している映像を流すわけです。
確かにこんな事をされたら日本人のほとんどが「日本は中国を侵略した」
と思うのは当然ですね。

大嘘です。

「日本が中国に侵略した」と言う人が出すものは二つだけです。
これさえ押さえれば大丈夫です。
十分に中国のプロパガンダを撥ねつけられます。
1つは満州国建国関連。そしてもう1つは盧溝橋に始まる戦いです。
では後者から

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渡部昇一に靖国問題で論破された中国大使

慮溝橋で最初に発砲し、攻撃を仕掛けたのは中国側であるということ。
それが上海に飛び火して戦火が拡大していくのだが、
この上海の飛び火は中国側の正規軍が日本人居留地を攻撃したものであること。
これらを私は事実をあげて述べた。東京裁判もこれを認め、
日本のシナ事変の開戦責任を問うことはしなかった。それを問えば、
戦勝国である中国側の責任があらわになってしまうからだ、とも述べ た。
王毅大使はじっと聞いていたが、それだけだった。
これについて、なんの発言もなかったのである。
http://www.melma.com/backnumber_256_3152291/

↑当時の王毅駐日大使は現在の外交部長(外務大臣)



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999 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/03(水) 07:57:50.56 ID:lIiV1O0F0 (6/6) [PC]
>>985
一緒に捏造歴史を正していた人だっけ?
>>991
>毛沢東の大躍進や文革は滑稽

いや、これも恐ろしいよ
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舌禍男として知られるベルルスコーニ伊首相(69)はACミランの元会長として有名だが、
元々は実業家として大成功をおさめた後に政界に転じ、
現在は右派連合「自由の家」を率いる、「大」の付く共産主義嫌いである。
投票日は4月9日。直前の選挙予想では在野の中道左派連合「団結」が優勢で
、イライラが募ったのか、首相の口からつい飛び出したのが、毛沢東時代の共産中国での乳児大虐殺発言であった。
「“共産主義者は赤ん坊を喰う”と発言し、私は過去に何度も非難された。
よろしい!ならば『共産主義の黒い本』を読んでみなさい。
毛時代の中国では赤ん坊を食べはしなかった。彼らは赤ん坊を茹で、畑の肥料にしていたのだ」
中国側はすぐさま「根も葉もないデタラメ」と大抗議。
ところが、欧州マスコミは「歴史的事実に基づいた、首相による初めての正確な発言」と一様に好意的である。
在欧ジャーナリストによれば「彼が引用した『黒い本』は、フランスの歴史学者チームが97年に刊行した共産主義下の
ソ連や中国などの実態研究報告です。クルトワ博士を筆頭とする6人の著者は自らを左翼と言い、
上梓の動機を“真実を語る恩恵を、ひとり極右に与えてはならないから”と説明しています。
同書には中国に関して1960年だけで2200万人が餓死するなど悲惨な内容がずらりと並んでいます。
フランスでは30万部、数カ国語に翻訳され、アメリカではNYタイムズ等の有力紙が賞賛の書評を載せ、
全世界で100万部を超えるベストセラーとなりました」
週刊新潮  THE WORLD INCIDENT より






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おまけ:

504 :名無しさん@0新周年@転載は禁止 [] :2014/09/02(火) 23:54:34.70 ID:yrTvYqmd0 (7/7) [PC]
◆日本軍は決して残虐ではなく、むしろシナ一般人から信頼されてた1

黄河決壊事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。中国では花园口决堤事件と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が示され、蒋介石の承認を得た。

 氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及んだ。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

 日本軍の対応
12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。
日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

 国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した
(日本軍は住民と共に土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュート投下してこれを支援したが、対岸にいた中国軍は、その航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えた)
日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。

 中国側の虚偽発表
中国国民党は当初から「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」との発表を行っていた。6月11日午前、中国国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。6月13日には全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した。

 

 各国メディアの報道
中国軍は黄河の堤防を破壊してノアの大洪水に勝る大水害を起こそうとしている。
中国の中部地域における70万平方キロメートルの地域が水没の危機に晒され、7千万の住民が大洪水の犠牲となろうとしている。しかし英、米、仏いずれからもこの世界に前例なき人類一大殺害に対し一言たりとも抗議する声を聴かない。

 民衆の離反
水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。
この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った。
(ウーによれば飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた)

 河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった。
農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で武装すると、シナ兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。

 推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられ、全ての農村において武装暴動が起きた。
日本軍に敗れた中国兵がいたるところでシナ民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。

 3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。

 これが史実。日中戦争においてシナ民衆を救い、その支持と支援を集め、シナの平和統一のために粗暴な賊軍であるシナ軍と闘っていたが大日本帝國軍。
後々のことを考えれば、大日本帝國によってシナが統一されてたほうが、シナ人民のためにも幸福であった。

 キチガイ左翼が絶対認めたくない、そっ閉じする歴史。