日本の事情的歴史考察 + 中国近代史

148+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:12:24.94 ID:7s/dEWyJ0 (16/44) [PC]
「日本は侵略した」論者が持ち出すのは二つ

1、満州国建国関連

2、盧溝橋から始まる日中戦争

2、についてはちょっと調べればそれが大嘘だとわかります。

では具体的に出していきます


149+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:13:10.94 ID:7s/dEWyJ0 (17/44) [PC]
>>148の続き

2、盧溝橋から始まる日中戦争

日本は北京議定書(中国側呼称・辛丑条約)という国際条約に従って
中国に駐兵していた。
その日本軍を攻撃するという事は例えれば
現在、日米安保条約で駐兵している米軍に自衛隊が攻撃するようなものだ。

全くとんでもない事を中国はしでかしたんだよ

しかしこんな事は普通起こりえない。
日米安保で駐兵している米軍に攻撃するくらいなら
日米安保を破棄して米軍に出ていってもらえば済む事だからだ。

では何故中国はそうしなかったのか?

そうしなかったと言うよりできなかった。
まず中国に於ける日本の権益は国際的に完全に認められていたという事
その日本の権益を治安の悪い中国政府が守る事が出来なかったから、
中国国内に日本軍がいたというわけ。(他国の軍隊もいた)
もし日本軍に出ていってもらいたかったら、
治安を回復して日本人が安全にいられるようにするか
9カ国条約締結国を招集して、条約改正の手続きを取るしかなかった。

それができなかったので
日米安保の米軍を日本(自衛隊)が攻撃するような暴挙に出た。


160+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:18:05.41 ID:7s/dEWyJ0 (21/44) [PC]
>>148の続き

さて順番は前後しましたが

1、満州国建国関連

これが侵略論争の最大の目玉です。
ちなみに私は4年以上この議論をしました。
どんな近代史の権威の学者が現れても問題ありません。
「満州国建国」は侵略なんかではありません。

ここにも「日本は侵略した」と思っている人は多いでしょう。
いつの日かその考えが改まる事を期待して書いてみます。



163+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:19:39.22 ID:7s/dEWyJ0 (22/44) [PC]
>>160の続き

話す前にこの話を聞いてください。

オランダがインドネシアを300年以上支配していたのはご存知の方も多いと思います。
さて、オランダによるインドネシア統治が終わる時に
「今までインドネシアを支配していたのだから今度はオランダがインドネシアに支配されるべきだ」
という人はいるでしょうか?
それはイギリスのビルマやインド、フランスのベトナムにもいえますが、「今度は逆に支配されるべきだ」と感情的になって言ったとしても
本気で言う人はいないでしょう。

しかしもしもオランダとインドネシアが話し合ってそのように決まったならば、
つまりインドネシアがオランダを統治するとなったら、日本がとやかく言う問題ではないでしょう。
インドネシアとオランダは協定を結び、インドネシアによるオランダ統治が始まった(とします)

しかしここでインドネシアが協定を破り、オランダが前のように独立するとなったら?

オランダを責めたりする人は誰もいないでしょう。

では満州国について・・・



174+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:21:04.91 ID:7s/dEWyJ0 (24/44) [PC]
>>163の続き

1、満州国建国関連

三民主義を知っているだろうか?

みんなも学校で習ったと思うが、ある事が隠されていた。
反日左翼教師が教えなかった事がある。

【三民主義】
1905年、中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の
「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
韃虜(だつりょ)=満州族の蔑称

「韃虜の駆除」である。それが隠されていた。
まぁなんというか「隠すほどに現るる事はなし」(隠そうとした事で却って人に知れ渡ってしまう)
この三民主義の場合、何が現れるかというと「満州国建国の正当性」である。

「満州国建国の正当性」を論じる上で漢民族と満州族をはっきりと区別し認識する事は
大事なことだ。


179+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:22:57.09 ID:7s/dEWyJ0 (26/44) [PC]
>>174の続き

17世紀に満州の地に興った満州族の国家である大清が、「漢民族」の国家である明を破り、
漢民族を支配した。
そして自分たちの出身地である満州を封禁策により漢民族の移住を禁止した※1。
これは将来、漢民族の抵抗に遭い支配する事が困難になった時に備えての事だろう。
その時は父祖の地である満州に帰ろうと・・・

そして実際、20世紀に入って辛亥革命が起こり、それを議論する機会が訪れた。

————————————-
支那に於ける革命が漸く危険視されるに至った時、
満州に退く事の可能性は決して満人朝廷によって看過されていたわけでは無かった。
否それは真剣に論議され、支那及び満州に於ける王室中心主義者達は
それが現在採る可き最善の道であることを説いたのであった。
しかし摂政及び王族の大半をして北京に留まることを最後的に決定さしたものは、
袁世凱から与えられた恩恵条約の条項の素晴らしさに対する愚なとは謂へ正直な信頼であった。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion06.htm



188+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:26:07.26 ID:7s/dEWyJ0 (28/44) [PC]
>>179の続き

この時に大清の満州族が父祖の地である満州に帰っていたら、
中華民国とは別の国、大清(国名はそのままかどうか分からない)が
満州の地で続いていた事になる。
しかし最終的に北京に留まったのは「袁世凱から与えられた恩恵条約」
すなわち清帝退位協定を中華民国政府と結んだからである。
これは一体どういう協定か?

中華民国政府が清朝と締結した『退位協定』(抜粋)

1 大清皇帝(宣統帝・溥儀)は辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
2 大清皇帝は年金として毎年400万両(テール)を中華民国より受領する。
3 大清皇帝は暫時、紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
5 先帝・徳宗景皇帝(光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀式も旧制のままとする。
6 紫禁城内の各職員は従来通り使用出来る。但し太監(宦官)は今後採用出来ない。
7 大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
8 禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/chuuka_minkoku1.html

この協定によって中華民国は大清の版図を承継した事になった。
つまり中華民国政府は満州族達から「満州の地を治めてもいいよ」と許可を与えられた。

で、この協定はどうなったと思います?
分かりますよね
その通り!あっさりと破られました。



190+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:26:51.36 ID:7s/dEWyJ0 (29/44) [PC]
>>188の続き

>その通りです!あっさりと破られました。

——————–

「清帝退位協定」とは、辛亥革命後、朝廷と革命政府間の対立の継続が内乱から無限の民族戦争に発展し、
無辜の大衆が戦乱に巻き込まれ、国民相互の大虐殺が行われることを深く憂慮した隆裕皇太后が
六歳の宣統帝溥儀を潔く退位させた際、清帝国朝廷と中華民国政府
(現実には革命に協力する交換条件として孫文から大総統の地位を譲り受けた袁世凱が代表した)
との間に結ばれた国家承継(相続)条約である。
これは、清室優待条件、皇族待遇条件、満蒙回蔵各族待遇条件から成り、
清皇室、満蒙王族の特権(年金支給、兵役免除、称号維持等)および満蒙回蔵各民族の私有財産の完全保護、
通商居住信教の完全自由、漢民族に対する完全同等の地位等を保障するもので、
中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した。
だが中華民国は協定を無視し、彼等諸民族の権利を剥奪し財産を没収してしまい、
欺かれた満蒙人は迫害から逃れる為、憤怒の情を胸中に秘めつつ地下に潜伏し、
再起する機会を窺っており、これが伏線となって満洲事変と綏遠事件が勃発したのである。
さらに中華民国政府(黄郛内閣)は一九二四年十一月六日、溥儀と日英蘭の公使の反対を無視して、
清帝退位協定清室優待条件改定に関する大総統令を布告し、溥儀から外国君主としての待遇と
皇帝の尊号を剥奪し、二八年七月には、大総統令第四条「清室の宗廟寝陵は永遠に奉祀し民国により衛兵を
附して之を保護す」が蒋介石の北伐軍によって蹂躙されてしまったのである。
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from25to37ww2.htm

>中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した

こんな事をしてあっさり破ったわけ。


193 :名無しさん@1周年 [] :2016/11/30(水) 22:28:52.10 ID:7s/dEWyJ0 (31/44) [PC]
>>190の続き

さて中国に協定を破られた宣統帝溥儀は満州に帰る決意をする。
そのきっかけは>>188の協定で決められた

>4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する

これが破られたからである。
すなわち蒋介石北伐軍によって先祖の墓荒らしをやられた為である。
それで父祖の地満州に帰る決心をした。

————————————–
他のことなら、たとえば侮辱でも、嘲笑でも、死の威嚇でも、財産の没収でも、
そして契約の破棄でも許す事ができよう。
しかしこの残忍極まりない、神聖冒涜のおぞましい行為だけは絶対に許すことができない。
このとき以来、シナに対する皇帝の態度が変化したのである。
もっと正確に言えば失政の責任を負うべき人々に対する皇帝の態度が変化したのである。
皇帝は生まれつき寛大で思いやりがある方なので、最も凶暴な敵に対してでさえ、今まで
ただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない。だが今度ばかりは、さすがの皇帝も到底
見逃せない事件だったのである。

その時まで皇帝は、満州に勢力が結集していることは知っていたものの、独立運動にはまったく関与していなかった。
また、皇帝自身が先祖の故郷の満州へ戻るよう誘われる可能性についても、
まともに考えたこともなかった。皇帝は、いつかシナが正気に戻り、万事がうまく運ぶだろうとという希望を抱きつづけていたのである。

だが、今やその希望も消えうせてしまった。私が次に皇帝を訪ねたときは、目立った変貌ぶりを見せていた。
あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか、
そしてそれまで自国と先祖を辱めたシナに向いていた顔を三百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、
満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ。

完訳 紫禁城の黄昏 祥伝社R・F・ジョンストン 中山 理(訳) 渡部昇一(監修)


______


580 :名無しさん@1周年 [] :2016/12/01(木) 01:04:45.56 ID:QcUWWgR50 (8/18) [PC]
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師であったイギリス人、
レジナルド・ジョンストンの著書で、
そこに満洲侵略の事実など存在しないことが明瞭に記されているからである
、「紫禁城の黄昏」には溥儀が序文を寄せているのだが、
それを溥儀が「書いた覚えがない」と証言したことだった。
書いた覚えがないのなら出版されたときに言うべきだろう。
東京裁判での溥儀の発言は嘘であることが明白である。

溥儀は他にも偽証をした。
自分が日本の公使館に逃げ込んで、
国と作りたいと熱烈に訴えてきたことは周知の事実でありながら、
捕まってソ連にいたために、
「自分は嫌だったが日本によって皇帝にされた」と証言した。
この偽証によって、東京裁判は満洲事変を侵略と決めつけた。
後年、溥儀自身が東京裁判での証言が嘘であったことを認めている。

東京裁判、日本に有利な証拠次々と却下
東京裁判は公正ではありませんでした。裁判の名を借りた勝者の敗者に対する一方的な復讐、つまり
「勝者の裁き」だったのです。①当時の日本政府・外務省・軍部等の公的声明のすべてが却下されました。
②共産主義の脅威および中国共産党に関する証拠は大部分却下されました。とりわけ、日本の正当な権益を脅かした組織的な排日運動
があった事実は、全く無視されたのです。③満州事変以前に、満州人の自発的な民族運動が、独立運動であった資料は、すべてが却下
されました。これは満州国が日本の傀儡政権であることを強調するためでした。④「この法廷は日本を裁くものであって、連合国を
裁くものではない」という理由から連合国側の違法な資料は大量に却下されました。アメリカの対日戦争準備や原爆投下等の問題は、
すべて不問にされたのです。これに比べて検察側の証拠は、たとえ伝聞証拠であってもほとんどが法廷証拠
として採用されました。却下されたのはわずか三%てす。さらにそれらに偽証罪は適用去れませんでした。
検察側は言いたい放題だったのです。






_______
:以下と差し替え



398 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/05(日) 10:46:17.95 ID:OP6uS8/80 (1/13) [PC]
>>6
>左翼は論理
>右翼は感情

なに分けの分からないこと言ってんだよこのバカ

どうもネトウヨです。

たとえば革命を起こそうとしたらどうすればいい?

世の中が平和で満ち足りた生活をしているのならば、誰が現状を変えよう(革命)するだろうか?

とくかく人々に不満を持たせるのが革命の近道なんだ。

過去(先祖)を非難し、現在に不満を持たせ、未来を絶望させる。
それが彼らの戦略なんだ。

その一環としての捏造歴史。先祖が血に飢えた侵略者だったとして
過去の日本を非難する。

真実の歴史で彼らの企みを粉砕しなければならない。


資料目次

1、開国前の日本

2、太平洋波高し

3、大日本帝国の存在意義

4、大日本帝国滅亡


418 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:47:06.74 ID:OP6uS8/80 (2/13) [PC]
1、開国前の日本

————-
アンベールは「江戸庶民の特徴」として、
「社交好きな本能、上機嫌な気質、当意即妙の才」をあげ、
さらには「日本人の働く階級の人たちの著しい特徴」として
「陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子供のように
いかにも天真爛漫であること」と数えあげる。
実際、彼らはある意味で、子供のような人びとだった。
狐拳を初めとして、外国人の好奇のまなざしにとらえられた大人の遊戯は、
その無邪気さにおいて、ほとんどばかばかしいほどのものである。
アンベールは書いている。
「日本の庶民階級の人々は、まるで子供のように、物語を聞いたり歌を唄うのを
聞いたりすることが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、
仕事場の付近や四辻などで、職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円をつくって
いるのを毎日のように見かける」

日本人が子どもを大切にし、そのため日本がまさに「子どもの天国」の観を呈している
ことについては、観察者の数々の言及がある。
だが実は、日本人自体が欧米人から見れば大きな子どもだったのである。
若者たちが、いや若者どころかいい大人たちが、小さい子どもたちに交って、
凧をあげたり独楽を廻したり羽根をついたりするのは、彼らの眼にはまことに
異様な光景に映った。
1870年から74年まで、福井藩校や東京の大学南校で教師をしたグリフィスにとって
「成人して強壮な身体の日本人が、西洋人なら、女の子はエプロンをつけ
男の子は巻き毛を刈る歳になると、見向きもしないような娯楽に夢中になっている」
のはおどろきだった。
「この二世紀半の間、この国の主な仕事は遊びだったといってよい」と彼は言う。
「日本人のように遊び好きといってよいような国民の間では、子供特有の娯楽と
大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは必ずしも容易ではない」

「逝きし世の面影」渡辺京二(葦書房) 現在平凡社ライブラリーより刊行
===============================================================

日本人は太平の世に飽きて銃を取ったのではない。そこには止むに止まれぬものがあった。


431 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:47:52.09 ID:OP6uS8/80 (3/13) [PC]
2、太平洋波高し

————————-
・・そればかりではなく、太平洋は今一つの意味でアメリカ人の心を惹きつけたのであります。
十八世紀から十九世紀にかけて、捕鯨はアメリカ及びロシアの最も重要なる
産業の一つでありましたが、十九世紀初頭に至って大西洋の鯨はほとんど捕り尽くされ、同時に北太平洋に
夥(おびただ)しき鯨のいることが知られたので、
この方面における捕鯨船の活躍がとみに目覚ましくなりました。
とりわけ一八四二年、米露両国の間に条約が結ばれ、両国互いにその領海内に入って
鯨を捕り得るようになったので、アメリカ捕鯨船の日本近海に出没するものにわかに多くなり、
一八四〇年代にはすでに千二百隻に及んだと言われております。
当時、どうして彼らがそれほど捕鯨に熱心であったかと申せば、蝋燭(ろうそく)の原料に
する油を取るためであったのであります。
その頃のヨーロッパは、植民地から搾取した富によって生活は豪奢となり、
各国の宮廷をはじめ、貴族富豪は競って長夜の宴を張って、
飲みかつ踊っていたのであります。
その宴会場を真昼のごとく明るくするために、数限りなく蝋燭を灯したのでありますが、
その蝋燭の白蝋が鯨油から取れるので、、贅沢が増せば増すほど、鯨が蝋燭に化けて
ヨーロッパの金殿玉楼を照らすことになったのであります。

日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く 佐藤 優
※引用文は大川周明著「米英東亜侵略史」
=================================================================

日本は、ヨーロッパの植民地搾取による贅沢が原因で強制開国させられ、弱肉強食の世界に放り込まれた。
こうして日本人は有色人種のアンカーとして近代世界史に登場した。

最終的に植民地を解放するきっかけを作り、ヨーロッパを没落せしめた。
この事実をみる時、ただただ唖然とする他はない。
全くなんという大偉業であろうか・・・


447 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:48:30.95 ID:OP6uS8/80 (4/13) [PC]
3、大日本帝国の存在意義
———————

H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)

  第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、
偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、
日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、
アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、
不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)


ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)

 すでに四百年の間、連続的勝利によって、
白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。
1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。
(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、
威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、
旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。
(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

http://www.ncn-t.net/kunistok/dainihon.htm

動画ではこちらをご覧ください。

大東亜戦争の名言集 .



459 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:49:05.24 ID:OP6uS8/80 (5/13) [PC]
3、大日本帝国の存在意義 (2)
————————-

日本は日露戦争でロシアに勝利すると、
たちまち白人諸国から警戒、敵視の対象となった。
アフリカ植民地アレキサンドリアで発行されていたフランス紙レ・ヌーエル(1912年8月7日)の論説は、
白人諸国の対日観を象徴的に言い表したものだ。

「これまで軽視してきた日本人が、わずか数ヶ月で第一流の地位に立ち、
世界を威圧するのを見、不可思議に感じる。世の中これほど憤激させる飛躍があるだろうか。
傲慢だった我々に、思わず手に冷や汗を握らせる。
日本の発展は、欧州を責罰するための天の指令であろう」

すでにヨーロッパでは日本が日清戦争に勝利した時点で、
日本が植民地を解放してしまうのではないかと恐れる黄禍論(黄色人種の抬頭)が現れていた。
その代表的な論者がドイツ皇帝ヴィルヘルム二世で、
日露戦争の前年である1903年には、ロシア皇帝ニコライ二世に
ロシアが黄禍阻止の前衛基地となるよう要請し、対日戦争への
協力も惜しまない姿勢を見せていた。
それは日露戦争中、日本の側に立っていたイギリスやアメリカにしても同様だった。
たとえば孫文は、
「東郷大将がロシアの艦隊を全滅させたニュースが伝わると、
全ヨーロッパの人々は父母を失ったように悲しんだ。
日本の同盟国であるイギリスでも、ほとんどの人が眉をひそめ、
日本の大勝利は白人の幸福ではないと考えた。
つまり血は水より濃いということだ」との「目撃談」を語っている。

「黄文雄の大東亜戦争肯定論」 黄文雄 WAC出版
————————————


491 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:50:28.86 ID:OP6uS8/80 (6/13) [PC]
4、大日本帝国滅亡
—————–
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾した。
この日ニューヨークポストは
「太平洋の覇権を我が手に」と題する社説で
「我々はペリー以来の願いを達した。これでアジアの市場と覇権は我々のものとなった」と書いた。

翌月9月2日、日本政府が降伏文書に調印したミズーリ号には、
日本に開国を要求した当時のペリーの星条旗が掲げられた

こうして大日本帝国は滅びたのであった。


551 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:53:45.43 ID:OP6uS8/80 (7/13) [PC]
という事で反日左翼と10年以上「日本は侵略をしたか?」の議論をしてきた。
「侵略していない」というのは鉄板情報であり、
あとはそれを広めるだけ。


「日本は侵略した論者」持ち出すのは二つ

1、満州国建国関連

2、盧溝橋から始まる日中戦争

2、についてはちょっと調べればそれが大嘘だとわかります。

では具体的に出していきます


570+1 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:55:02.77 ID:OP6uS8/80 (8/13) [PC]
2、盧溝橋から始まる日中戦争

日本は北京議定書(中国側呼称・辛丑条約)という国際条約に従って
中国に駐兵していた。
その日本軍を攻撃するという事は例えれば
現在、日米安保条約で駐兵している米軍に自衛隊が攻撃するようなものだ。

全くとんでもない事を中国はしでかしたんだよ

しかしこんな事は普通起こりえない。
日米安保で駐兵している米軍に攻撃するくらいなら
日米安保を破棄して米軍に出ていってもらえば済む事だからだ。

では何故中国はそうしなかったのか?

そうしなかったと言うよりできなかった。
まず中国に於ける日本の権益は国際的に完全に認められていたという事
その日本の権益を治安の悪い中国政府が守る事が出来なかったから、
中国国内に日本軍がいたというわけ。(他国の軍隊もいた)
もし日本軍に出ていってもらいたかったら、
治安を回復して日本人が安全にいられるようにするか
9カ国条約締結国を招集して、条約改正の手続きを取るしかなかった。

それができなかったので
日米安保の米軍を日本(自衛隊)が攻撃するような暴挙に出た。


599+1 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:56:32.06 ID:OP6uS8/80 (9/13) [PC]
>>570の続き

盧溝橋事件についてはどちらが発砲したなどというのは問題ではない。
(共産党云々も含めて)

その後にどちらが戦争をやる気満々だったかという事だ。
そちらが仕掛けたという事でいい。

日本側から何度も停戦協定を結んでも、ことごとくそれを破って戦線を拡大したのは中国側だ。
蒋介石「抗日全軍将兵に告ぐ」を読めば分かるし、
状況的に見ても↓

================================================
支那軍はすでに前年末頃から第一次上海事変停戦協定(昭和7年)に違反して、
非武装地帯の要塞化と軍隊配備を行なってきていたが、昭和12年、盧溝橋事件以後、
上海周辺への軍隊集中はいよいよ顕著となり、八月に入ると、蒋介石は中央軍を
上海方面に増派し、その兵力は十個師団にものぼった。
「大東亜戦争への道」中村粲 展転社 
================================================


625 :>>398より [] :2016/06/05(日) 10:58:07.55 ID:OP6uS8/80 (10/13) [PC]
>>599の続き

日本側から停戦協定を結んでも何度も破られ、その度に忍耐強い行動をしていたが
上海において一般日本人が攻撃されるに及んで
つにい堪忍袋の緒が切れ、戦争が始まった。

————————————————
海外メディアの報道
1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、
数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。
ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。
またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に
「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89


669+2 :>>398より [] :2016/06/05(日) 11:00:33.36 ID:OP6uS8/80 (11/13) [PC]
>>611
>コピペ連続は右左関係なしにキモい

資料を「コピペ」な。
へんてこなコピペと一緒にすんなよ。
お前はちゃんと「日本は侵略していない」って知ってたか?
知ってたんなら見る必要はない。


788 :>>398より [] :2016/06/05(日) 11:06:32.07 ID:OP6uS8/80 (12/13) [PC]
満州の方はこちらです
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1464753920/581

それとサシで侵略論争をしたいのはいるか?
別スレに誘導してやるからレスつけろ。

お願いだからよく知らないのにかまってちゃんは止めてね。
前に誘導したら中学生くらいの知識しかなかったんだよ。

びっくらこいた


___


581+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:16:15.52 ID:sw0bHU5Z0 (6/13) [PC]
満州国建国の正当性

下準備

オランダがインドネシアを300年以上支配していたのはご存知の方も多いと思います。
さて、オランダによるインドネシア統治が終わる時に
「今までインドネシアを支配していたのだから今度はオランダがインドネシアに支配されるべきだ」
という人はいるでしょうか?
それはイギリスのビルマやインド、フランスのベトナムにもいえますが、「今度は逆に支配されるべきだ」と感情的になって言ったとしても
本気で言う人はいないでしょう。

しかしもしもオランダとインドネシアが話し合ってそのように決まったならば、
つまりインドネシアがオランダを統治するとなったら、日本がとやかく言う問題ではないでしょう。
インドネシアとオランダは協定を結び、インドネシアによる統治が始まった。

しかしここでインドネシアが協定を破り、オランダが前のように独立するとなったら?

オランダを責めたりする人は誰もいないでしょう。

では満州国について・・・



583+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:17:31.63 ID:sw0bHU5Z0 (7/13) [PC]
>>581の続き

三民主義を知っているだろうか?

みんなも学校で習ったと思うが、ある事が隠されていた。
反日左翼教師が教えなかった事がある。

【三民主義】
1905年、中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の
「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
韃虜(だつりょ)=満州族の蔑称

「韃虜の駆除」である。それが隠されていた。
まぁなんというか「隠すほどに現るる事はなし」(隠そうとした事で却って人に知れ渡ってしまう)
この三民主義の場合、何が現れるかというと「満州国建国の正当性」である。

「満州国建国の正当性」を論じる上で漢民族と満州族をはっきりと区別し認識する事は
大事なことだ。


585+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:18:56.13 ID:sw0bHU5Z0 (8/13) [PC]
>>583の続き

17世紀に満州の地に興った満州族の国家である大清が中原を制覇し、
漢民族を支配した。
そして自分たちの出身地である満州を封禁策により漢民族の移住を禁止した※1。
これは将来、漢民族の抵抗に遭い支配する事が困難になった時に備えての事だろう。
その時は父祖の地である満州に帰ろうと・・・

そして実際、20世紀に入って辛亥革命が起こり、それを議論する機会が訪れた。

————————————-
支那に於ける革命が漸く危険視されるに至った時、
満州に退く事の可能性は決して満人朝廷によって看過されていたわけでは無かった。
否それは真剣に論議され、支那及び満州に於ける王室中心主義者達は
それが現在採る可き最善の道であることを説いたのであった。
しかし摂政及び王族の大半をして北京に留まることを最後的に決定さしたものは、
袁世凱から与えられた恩恵条約の条項の素晴らしさに対する愚なとは謂へ正直な信頼であった。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion06.htm
————————————-

この時に大清の満州族が父祖の地である満州に退いていたら、
中華民国とは別の国、大清(国名はそのままかどうか分からない)が
満州の地で続いていた事になる。
しかし最終的に北京に留まったのは「袁世凱から与えられた恩恵条約」
すなわち清帝退位協定を中華民国政府と結んだからである。
これは一体どういう協定か?


587+3 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:20:14.63 ID:sw0bHU5Z0 (9/13) [PC]
>>585の続き

中華民国政府が清朝と締結した『退位協定』(抜粋)

1 大清皇帝(宣統帝・溥儀)は辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
2 大清皇帝は年金として毎年400万両(テール)を中華民国より受領する。
3 大清皇帝は暫時、紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
5 先帝・徳宗景皇帝(光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀式も旧制のままとする。
6 紫禁城内の各職員は従来通り使用出来る。但し太監(宦官)は今後採用出来ない。
7 大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
8 禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/chuuka_minkoku1.html

この協定によって中華民国は大清の版図を承継した事になった。
つまり中華民国政府は満州族達から「満州の地を治めてもいいよ」と許可を与えられた。

で、この協定はどうなったと思います?
分かりますよね
その通り!あっさりと破られました。


588+2 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:21:48.20 ID:sw0bHU5Z0 (10/13) [PC]
>>587の続き

>その通り!あっさりと破られました。

——————–

「清帝退位協定」とは、辛亥革命後、朝廷と革命政府間の対立の継続が内乱から無限の民族戦争に発展し、
無辜の大衆が戦乱に巻き込まれ、国民相互の大虐殺が行われることを深く憂慮した隆裕皇太后が
六歳の宣統帝溥儀を潔く退位させた際、清帝国朝廷と中華民国政府
(現実には革命に協力する交換条件として孫文から大総統の地位を譲り受けた袁世凱が代表した)
との間に結ばれた国家承継(相続)条約である。
これは、清室優待条件、皇族待遇条件、満蒙回蔵各族待遇条件から成り、
清皇室、満蒙王族の特権(年金支給、兵役免除、称号維持等)および満蒙回蔵各民族の私有財産の完全保護、
通商居住信教の完全自由、漢民族に対する完全同等の地位等を保障するもので、
中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した。
だが中華民国は協定を無視し、彼等諸民族の権利を剥奪し財産を没収してしまい、
欺かれた満蒙人は迫害から逃れる為、憤怒の情を胸中に秘めつつ地下に潜伏し、
再起する機会を窺っており、これが伏線となって満洲事変と綏遠事件が勃発したのである。
さらに中華民国政府(黄郛内閣)は一九二四年十一月六日、溥儀と日英蘭の公使の反対を無視して、
清帝退位協定清室優待条件改定に関する大総統令を布告し、溥儀から外国君主としての待遇と
皇帝の尊号を剥奪し、二八年七月には、大総統令第四条「清室の宗廟寝陵は永遠に奉祀し民国により衛兵を
附して之を保護す」が蒋介石の北伐軍によって蹂躙されてしまったのである。
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from25to37ww2.htm

>中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した

こんな事をしてあっさり破ったわけ。


589+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:23:51.02 ID:sw0bHU5Z0 (11/13) [PC]
>>588の続き
さて中国に協定を破られた宣統帝溥儀は満州に帰る決意をする。
そのきっかけは>>587の協定で決められた

>4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する

これが破られたからである。
すなわち蒋介石北伐軍によって先祖の墓荒らしをやられた為である。
これ以前に既に協定は破られていたが、先祖の墓荒らしをされた事で父祖の地満州に帰る決心をした。

————————————–
他のことなら、たとえば侮辱でも、嘲笑でも、死の威嚇でも、財産の没収でも、
そして契約の破棄でも許す事ができよう。
しかしこの残忍極まりない、神聖冒涜のおぞましい行為だけは絶対に許すことができない。
このとき以来、シナに対する皇帝の態度が変化したのである。
もっと正確に言えば失政の責任を負うべき人々に対する皇帝の態度が変化したのである。
皇帝は生まれつき寛大で思いやりがある方なので、最も凶暴な敵に対してでさえ、今まで
ただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない。だが今度ばかりは、さすがの皇帝も到底
見逃せない事件だったのである。

その時まで皇帝は、満州に勢力が結集していることは知っていたものの、独立運動にはまったく関与していなかった。
また、皇帝自身が先祖の故郷の満州へ戻るよう誘われる可能性についても、
まともに考えたこともなかった。皇帝は、いつかシナが正気に戻り、万事がうまく運ぶだろうとという希望を抱きつづけていたのである。

だが、今やその希望も消えうせてしまった。私が次に皇帝を訪ねたときは、目立った変貌ぶりを見せていた。
あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか、
そしてそれまで自国と先祖を辱めたシナに向いていた顔を三百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、
満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ。

完訳 紫禁城の黄昏 祥伝社R・F・ジョンストン 中山 理(訳) 渡部昇一(監修)


593+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:33:22.32 ID:sw0bHU5Z0 (12/13) [PC]
ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200612160326.html
■ 「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ  2006年12月17日


溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。
「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。
すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、
当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。

東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満洲国」の執政に就任したことについて、
日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、
その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。
裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。

完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、
彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。
64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。

また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満洲国閣僚らに命じたことについて
「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。
法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。
中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。

64年版でも満洲国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、
完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。
=======================================================================

>事実はすべて私が自発的に行ったことだった。
>法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。

満州国の統治権は皇帝ただひとりにあった。その彼が↑のような証言をしている。
傀儡とは操り人形という事だが、満州国は日本の傀儡国家であるわけはない。


595+1 :名無しさん@1周年 [] :2016/06/02(木) 21:39:12.34 ID:sw0bHU5Z0 (13/13) [PC]
というか
宣統帝溥儀は満州国建国にあたって執政ではなく皇帝に拘ったが(1年後に皇帝になる)、それと同時に
新国家の政体にも拘った。共和制の国か帝政の国か
で、関東軍の土肥原から「宣統帝が全てを決定する国家の帝政です」という言質を得ている。
もし約束を破ったのなら自伝や側近に「嘘をつかれた」と言うだろう?
だが実際に書いたのは

>事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。

反日左翼とやりあった時に、関東軍がいろいろ決めていたから傀儡(操り人形)だ!
などと寝とぼけた事を言っていたが、
それは「よきに計らえ」だ。

荒野の満州国を一気に重工業国家にするためには日本の協力が必要だ。
こまごまとした経済政策や、国防などは関東軍に対して皇帝として「よきに計らえ」でやっていたまでだ。

本当に何も分からないドアホウだよ、反日左翼ってのは・・・