日本と中国 近代軍事衝突 経緯いろいろ 日中戦争・盧溝橋事件・支那事変・北支事変・通州事件

863 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:34:41.22 ID:PR/bQN770 (1/14) [PC]
【外国人は日本を支持】

上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の
会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、
皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。

日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日
の間、兵営から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。

「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに
関しては意見が分かれるかもしれない。
しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。

日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、
事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。

だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまっ
たのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込
もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)


867 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:37:15.31 ID:PR/bQN770 (2/14) [PC]
当時のニューヨークタイムスは、常に日本に対して批判的だった新聞社です。
とにかく日本について良いことは一切書かない。まるで昨今の日本のメディア
みたいなものです。

ところがそのニューヨークタイムスでさえ、上海事変については「支那の一方
的な攻撃によって、上海の戦いが始まった」と伝えざるをえなかったのです。

この頃、上海の共同租界には日本人が3万人余り居住し製造業、商業などに
携わっていました。
そしてその居留民保護のために、日本の海軍陸戦隊2200名が上海租界の
居留民保護にあたっていました。

ところが支那国民党軍が、いきなり租界の外側の非武装地帯に大量に侵入し
てきました。
そこで日本の海軍陸戦隊は、急遽約2千の増援部隊を集めたのです。
それが、上記記事にある、「増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩
も外に出さなかった」と書かれている「増援部隊」です。

日本は、本格的な戦闘に発展することを恐れたのです。

一方、上海租界を包囲する支那国民党軍は、ドイツ式装備を施された精鋭部隊
の88師を主体とする3万の大軍です。
そして国民党軍は、兵力と火力にものをいわせて、13日から日本の海軍陸戦
隊に対して攻撃を始め、14日には、航空機による爆撃を含む一斉攻撃をかけ
てきたのです。

こうして史実を冷静にひとつひとつ積み重ねて行けば、戦争を仕掛けてきたの
が、明らかに支那側であることがあきらかです。
日本は望まない戦に引きずり込まれたにすぎません。

さらにいえば「条約に基づき駐屯している軍、および民間人に対して正規軍
で一斉攻撃をかける」という行動は、国際法上は、たとえそれが自国内のこ
とであっても「侵略行為」です。

従って、支那事変が、支那国土内で起こった事件であったとしても、これは
「支那による日本への侵略戦争」である、というのが、客観的に見た支那事
変開戦の真相です。


880 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:47:42.19 ID:PR/bQN770 (4/14) [PC]
そして盧溝橋事件が起こった

このようにいつどこで日本攻撃事件が起ってもおかしくない状況のもと、
1937年7月7日に盧溝橋事件が起ったのである。

日本軍第8中隊135名が、29軍に事前通告したうえで、盧溝橋城に
近い河川敷で演習をしていた。

地図(添付1)にあるように盧溝橋城(宛平県城)と中国軍のトーチカ
のある土手を背にして約400メートル離れた所から演習を開始しさら
に400メートル先で演習を終了しようとする直前の10時40分頃に
数発の銃弾が撃ち込まれた。その後土手方向から十数発の発砲があり、
翌朝3時25分にも3発、5時30分4回目の銃撃があった後に初めて
日本軍は反撃を開始したのである。最初の銃撃からは7時間後のことである。

11日の現地停戦協定で29軍が全面的に責任を認めているのは、したが
って当然のことなのである。

さらに前述したように、停戦協定第3項は「事件はいわゆる藍衣社、共産党、
その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策を
なし、かつ取り締まりを徹底す」となっていて、29軍首脳も、誰が実際に
発砲したのか具体的にはつかんでいなかったが、どうも共産党が怪しいとい
う事は察知していたわけである。

徹底抗日を叫び続けてきた共産党が衝突事件を起こそうとするのは、当然の
ことではあるが、実は共産党は当時深刻な窮地に立っていたのである。

たしかに、西安事件により、蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力
関係をつくることを約束した。しかし、その後蒋介石は次々に厳しい条件を
共産党に対して突きつけ、半年後の1937年6月頃には国共決裂の寸前と
なっていたのである。

エドガー・スノーは述べている。

共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることとなり、— 1937年
6月には蒋介石は、— 再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。
— 共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠
に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた。(注6)

この窮地打開のために大博打を打って出たのが共産党であった。

第29軍の中に大量にもぐりこませていた共産党員(注7)に隊内で反日を
煽らせ、それにまぎれて発砲事件を7月7日夜10時40分に起こしたので
ある。


884 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:50:31.00 ID:PR/bQN770 (5/14) [PC]
                     
共産党が仕掛けた動かぬ証拠:78通電

共産党が盧溝橋事件を起こしたことは今や100%明らかである。

発砲事件の翌日8日に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を
蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体
などに発信している。

共産党の公式史で「78通電」として特筆されているものである。
さらに同日に同種の電報を毛沢東ら軍事指導者7名の名前で蒋介石、宋哲元
等に送っている。

前述したように日本軍は、8日午前5時30分に初めて反撃を開始したので
ある。当時の通信事情からして8日に始めて反撃があったのに8日にこの
情報を手に入れて経過を含む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、
中央委員会の承認を得て、全国に発信するなどと言うことは絶対的に不可能
である。

唯一可能なのは、事前に準備していた場合である。

実際に準備していたのである。その証拠が存在する。

支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、
天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の
中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。

「成功了」

(成功した)と3回連続反復送信していた。」
(産経新聞平成6年9月8日夕刊)とのべている。

その時はこれが何を意味するか分からなかったという。
今では明らかである。盧溝橋での謀略が成功したことを延安に報告していた
のだ。早速延安では電文つくりが行われたのだ。




887 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:53:16.14 ID:PR/bQN770 (6/14) [PC]
                  
盧溝橋事件の徹底拡大を図った共産党

 日本軍が一斉侵攻を行った事実などないのであるが、共産党はそれを
望んでいたことをスノーの文章は図らずも暴露している。

蒋介石が剿滅作戦を放棄せざるをえなくなったことを喜んでいるが、さら
に進んで日本軍と戦わせることが彼らの本当のねらいであった。

盧溝橋事件後に出されたコミンテルン指令(注9)は1項、2項で次のよう
に言っている。

1)あくまで局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない。

2)右目的貫徹のためあらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への
 譲歩によって中国の解放を裏切る要人は抹殺してもよい。

 共産党の苦境打開という直接的な狙いの他に、盧溝橋事件の真の狙い
は日中全面衝突を起こすところにあったことが、これではっきりと理解できる。共産党は抗日を叫んではいたが、自らが直接日本軍と戦うことよりも、日本軍と蒋介石軍との間の本格戦争を引き起こすことこそが、真のねらいだったのである。

これによりソ連の安全確保という目的が達成でき、そして日中両国の疲弊・
共倒れをもたらすことによって、共産党の勝利を実現しようという長期的な
戦略である。

コミンテルンの世界戦略とそれを推進した中国共産党のこの最終目標はその
後1949年に実現したことは言うまでもない。



894 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 20:56:39.12 ID:PR/bQN770 (7/14) [PC]
北支事変と通州事件

 共産党のねらい通りに衝突は拡大し、南京の蒋介石政権も軍を北上させる
準備を進めた。

先に述べたように日本は不拡大方針の変更を迫られ、7月27日に3個師団
の派兵を決定し、28日29軍に対して開戦通告をした。
少数兵力であったが、満州の関東軍、朝鮮駐屯軍の1部の支援もあり、日本
軍はたちまち平津地区(北京―天津地区)を制圧した。

 ところが少数日本軍が移動したすきを突いて中国軍保安隊による日本人居留
民の大虐殺事件が起こった。

北京の東約12キロに通州という町があり、ここにはおよそ420名の日本人
が居住していた。7月29日、日本軍守備隊が近くの南苑の攻撃に向かったた
め110名足らずの兵力となってしまった。

町には親日的な殷汝耕の自治政府の保安隊が駐屯していたが、この状況を見て
突如矛先を少数残存部隊と一般市民に向けて襲い掛かり、大殺戮の蛮行を繰り
広げたのである。

実は以前から張慶余第1総隊長、張研田第2総隊長は国民党と通じていた事が
その後判明している。

 多数の老幼婦女子を含む無辜の住民に対して略奪、暴行、凌辱、殺戮など
残虐の限りを尽くし、殺害されたものは250名を数えた。

旭軒(飲食店)では女7,8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺
されており、その中4,5名は陰部を銃剣で突き刺されていた。

日本人男子の死体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血糊は
壁に散布し、言語に絶するものだった。

(30日現場に駆けつけて救出に当たった第2連隊長萱島高証人の東京裁判に
おける証言)

近水楼(旅館)入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけ
新聞紙がかけてあった。本人は相当抵抗したらしく、上半身も下半身も暴露し、
4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。

— その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指をそろ
えて切断されていた。

南城門近くの日本人商店では、主人らしき死体が路上に放置してあったが、
胸部の骨が露出し、内臓が散乱していた。」
(通州救援の第2連隊歩兵隊長代理桂鎮雄証の東京裁判における証言)

等々、まさに言語に絶する暴虐であった。



992 :   @転載は禁止 [] :2014/09/19(金) 21:52:01.84 ID:PR/bQN770 (13/14) [PC]
                     
中国共産党は日本軍に「謝謝!謝謝!」

■1964(昭和39)年7月、日本社会党の佐々木更三
委員長らを団長とする訪中団が毛沢東主席と会談した。

佐々木更三委員長が例によって「どうも申し訳ないこと
をしました」と謝罪したところ、毛沢東主席は「何も謝る
ことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし
てくれた。お陰で中国人民は権力を奪取することができた。

日本軍なしに我々は権力を奪うことはできなかった」と答えた。

これは東大近代中国史研究会訳の「毛沢東思想万歳」という
資料に出てくる話である。


■また、1977(昭和52)年に三岡健次郎・元陸将が
鄧小平さんと会談した際、鄧小平は「日本は中国を助けた
ことになっている。

日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍
の占領地域の後方に広がった。

皆さんだけを責めるのは不公平と思う」と発言している。

 二人の国家首脳が日本軍に感謝しているのだから、

靖国参拝を軍国主義復活だとか非難するのはおかしな話です。
やはり1982(昭和57)年の「教科書検定誤報事件」の
あたりから中国の国内方針が変わったとしか思えません。
⇒宮沢喜一とか朝日新聞は万死に値する。(真中)