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司馬遼太郎 ベトナム取材中に韓国人と間違われる

484 :本当にあった怖い名無し [sage] :2013/09/02(月) 20:40:01.98 ID:52meEq1QO [携帯]
291:本当にあった怖い名無し :2013/09/02(月) 19:59:31.08 ID:M6QMT8Cg0 [sage]
>>287

司馬遼太郎はベトナム取材中に韓国人と間違われ、村民に口々に「ダイハーン!」と罵られてリンチを受けそうになった恐怖体験を書いている。
氏が日本人だと判ったとたんにみな温厚なベトナム人の笑顔に戻って非礼を詫びたという。
(『人間の集団について』-中央文庫)

韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したと言われ、ベトナムでは村ごとに『ダイハンの残虐行為を忘れまい』と碑を建てて誓い合っているという。

生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事(*)には記されている。
以下、その部分を略して引用すると;

*大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射
*子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む
*女性を強姦してから殺害。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す
*トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す・・等々だ

(*『ハンギョレ21』1999年5月6日号掲載。歴史研究者ク・スジョンがベトナム戦争での韓国軍の残虐行為を記録したベトナム側の資科に基づき、ベトナムで現地調査を行って生存者の証言を集めた報告)

なお韓国ではタブーであった韓国軍の虐殺行為が暴かれたことに激怒した韓国退役軍人ら2000人余がハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータを破壊するなどの報復が行われた。

参考:ライダイハンとは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%83%B3

沈寿官  司馬遼太郎の嘘

抽出ID:xZeoXFzR0 (5回)

642 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/11/16(金) 13:37:20.20 ID:xZeoXFzR0
昨日の参議院の国会中継で、小渕優子さんが「チン・ジュカン」という薩摩焼宗家を名乗る人物の話をして
日韓友好話をぶちあげていたのをご覧になった奥様いらっしゃいますか?

こんなのにコロッと騙される国会議員…
もういいかげんにしてもらいたいです。

仏法対話(84)沈寿官の真実
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55476886.html

司馬遼太郎は筆名。司馬遷に及ぼずの意味の筆名とか。
司馬遷は、言うまでもなく「史記」を著した歴史家。

司馬自身も、目標としている司馬遷には及ぼずとはいえども、
現在では「独自に資料や文献にあたり、歴史や人物を展開する手法は
『司馬史観』と称される」(朝日新聞、十月二五日タ刊)ほど、
小説家としてだけでなく、歴史家としても一目も二目も置かれた存在となっている。

しかし、これほどの人物の著作物の中だが、歴史家としての名声に疑問をもたされるものがある。
「故郷忘じがたく侯」(文芸春秋社、昭和四三年刊)がそれである。

同書は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本に強制連行された(私はこの説に異議ありだが)
陶工家たちが、故国の事が忘れられないまま鹿児島・苗代川(現・美山)に住みつき、
日本人の差別に耐えて、薩摩焼を陶芸品として定着させたという歴史もの。
日・韓の「する」「される」歴史の側面を、沈寿官という陶工を通して描いた秀作
というのが一股的な評価となっている。この書を読んで感激しわざわざ苗代川を訪れる者もあるようだ。 

この司馬作で脚光を浴びたのが、この書のモデルとなった 「薩摩焼宗家十四代沈寿官」。
それまでは無名であった者が、この書の出現でこの書が作りあげた虚像のままに生きることになる。
そのお手伝いはマス・メディア。 問題は司馬のこの書の大半が嘘で固められていることである。
先ず十四代・沈寿官(以下十四代と記す)の経歴に詐称がある。
その点から「司馬史観」の実態の一端を検証してみたい。 十四代は韓国人?日本人?
 

643 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/11/16(金) 13:40:49.12 ID:xZeoXFzR0
「鹿児島県旧士族沈寿官家はその韓国ふうの姓名が世襲であり、戸籍名であり、むろん
いまの第十四代の当主もその名なのである」(同書八ぺージ)
「薩摩に連れて来られて以来、江戸時代からこんにちにいたるまでついにその姓名を
かえようとしていない」(同書九ぺージ)とあるがこれが全くの嘘なのである。

十四代の戸籍名は大迫(吉本)恵吉 。
大正十五年十二月三日に誕生すると、既に日本姓を名乗っていた吉本祐康、
その妻テイの実子として届けられる。テイは十三代の実妹。
そのあと、昭和三一年二月二二日に大迫エダ(実母・ハマノの母)と養子縁組をする。

この十四代が沈姓になったことがある。

それは実父十三代の死(昭和三九年三月三一日)の前日、
妻と共に実父・実母の養子となるが、それから半年も経たないうちに大迫姓に戻っている。
従って、旧制二中入学時は吉本恵吉。
ところが、司馬の書では本名は伏せられ、沈姓で終始する。

そこから次のような捏造がまかり通る。 

入学早々、教室にすぐ上級の者が数人はいってきて、
「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。(同書四十ぺージ)。
上級生たちは「新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知っただけであるし(同書四一ぺージ)。
その後、上級生たちは「沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。
精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、
十人ほどが寄ってたかって殴った」(同書四二ぺージ)となる。

この暴行の場面は朝鮮人迫害の恰好の例として、
在日朝鮮人作家・金達寿、金一勉がそれぞれの著作で踏襲する。
秋山ちえ子も「哀しい町」で同行同曲のことを書く。
そして、NHKで増幅される。

645 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/11/16(金) 13:45:25.62 ID:xZeoXFzR0
十四代は昭和四一年に、韓国民を震え上がらせていたKCIA(韓国情報局)
の招きで渡韓し、朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。
その時十四代はどういう肩書で渡韓しているのか。
司馬の筆によると「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者に
まねかれて渡韓した。」(同書五九ぺージ)とある。

ここでは陶工家の肩書は出てこない。
薩摩焼きの第一人者でもないのだ。それはそのはずである。
十四代が東京から帰鹿したのは昭和三五年以降のはずである。
昭和三一年出生の長女の届けは東京都。長男のそれは昭和三四年、横浜で届け出。
次女の出生(昭和三六年三月三一日)の届げ出が初めて鹿児島でなされている。

この間の十四代の経歴はどうなっていたのか。

昭和二〇年十四代は旧制中学を卒業すると鹿児島医専(現鹿大医学部)に入学、中退。
その後、早稲田大学政経学部卒のあと、鹿児島選出の自民党代議士床次の秘書となっている。

その秘書稼業をやめ、帰鹿し窯場の苗代川に落ち着いても
十四代が作陶に精出している姿を地元の陶工家で見た者はない。
十四代は政治向きのことで奔走しているのだ。
昭和四六年、四七年には大迫恵吉の名で鹿児島県PTA連合会会長となっている。

そういう下地を作ったあと十四代は参議院選挙に打って出る準備もしている。

こういう経歴の持ち主が、昭和四三年刊行の司馬の書では早くも名工扱いになっている。
ここでも司馬の筆が踊る。十四代は十三代に「少年のころから作陶の技術を教わった。」と。
これなど全くのインチキである。十四代はNHKの放映でもそのように喋っているのだが、
十三代は京都帝大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をやり、戦後は郷里で村会議員をしていたのだ。

十四代が名工などということがとんでもないことは別の面からも証明出来る。
 

646 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/11/16(金) 13:59:17.27 ID:xZeoXFzR0
『故郷忘じがたく候』の虚構性  大阪青山短期大学 福井雄三
http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi226.html

私の友人に、ソウル大学名誉教授の李杜玄という人物がいる。
東アジアの民俗学が専門の学者だが、この人も『故郷忘じがたく候』を読んで、あまりにも感動され、
ソウルから飛行機に乗って鹿児島の沈寿官氏の家までわざわざ会いに行かれた。

そのときのことを、彼は私に次のように語っている。

「いやぁ、福井さん、あの『故郷忘じがたく候』は大変素晴らしい名作だけれども、
内容的には大部分が司馬遼太郎の創作ですよ。一応は、沈寿官から聞いた史実をふまえての
エッセイということになってますけれどね。まぁ、地名だとか、人名だとか年代などは、
基本的に事実だとしても、あれはまさしく司馬さんが自分の空想を膨らませて書いた作品で、
彼自身の思いこみが投影されたものですよ」

拙著『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)のなかで、
私は以前『故郷忘じがたく候』をとりあげて論じたことがある。
すると、その後、読者の方からこれに関して次のような内容のお手紙を頂いた。

『我が母校の鹿児島二中は、九州でも屈指の文武両道の進学名門校であり、嘘をつくな、
けんかに負けるな、弱い者をいじめるな、という尚武の気風をモットーにしています。
卒業生たちも社会で名を成した立派な人たちが多く出ています。

そのわれらが母校の入学式で、上級生による朝鮮人新入生への集団暴行が、
毎年恒例の伝統的な行事として行われるなど、前代未聞です。
そんなことが実際に起こっていれば、教師や父兄をも巻き込んだ大問題に発展し、
校長の首は飛んでいるでしょう。少なくとも、私の周辺や見聞した限り、そのようなことは皆無です。
司馬遼太郎がなぜこのようなでたらめを書くのか分かりません。

甲南高校も含めた鹿児島二中の同窓会では、司馬を名誉毀損で訴えてやりたい、
という怒りの声が沸き起こっています。福井先生、いつか機会があれば、是非、
このことを世間に訴えて下さい』

647 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/11/16(金) 14:03:43.76 ID:xZeoXFzR0
スーパー作家、司馬遼太郎!
http://www.logsoku.com/r/magazin/1187163286/
388 :イラストに騙された名無しさん:2009/10/07(水) 00:49:26 ID:7goBkq01

福井氏が以前、『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実―明治と昭和の虚像と実像』の中で
司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』を論じたところ、読者から手紙が寄せられた。
それによると、沈寿官が旧制鹿児島二中(現・甲南高等学校) に入学して最初の日に、
朝鮮人だということで上級生に呼び出され、凄惨なリンチを受けたエピソードについて、
沈寿官が大嘘吐きか司馬が作り話を書いているかのどちらかであると言う。

イジメどころか、当時、 沈寿官は喧嘩三昧に明け暮れた番長クラスのボスだったそうだ。
それで、同中の同窓会では、司馬を名誉毀損で訴えたいという怒りが湧き上がっていたそうだ。

だいぶ前、週刊新潮も、司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』で描かれた
沈寿官への日本人の凄絶なイジメの話とかは実は嘘で、沈寿官の親類筋の証言として、
実は先輩の彼女に手を出してリンチされたとか、
彼は有名になってからも料理屋の女将に襲い掛かったとかの話の記事を載せていた。
あと、「薩摩焼宗家」という称号も事実に反し、薩摩焼関係者からクレームが出されていると。

395 : イラストに騙された名無しさん[sage] : 投稿日:2009/11/29 11:37:36ID:aV0ik0K9 [1/1回]
司馬WWW
[372:名無しさん@恐縮です (2009/11/26(木) 19:48:55 ID:JfyzY2pJ0) AA]

歴史、小説の別じゃなくて二枚舌なとこに批判が集まってる気がする。
例えば福田恒存っておっさんが司馬の乃木愚将論を多角的に批判したわけ。
後付けで物言うな黒ぶちメガネ、大体お前のネタ本はトンデモ満載の機密日露戦争だろ?ってな感じで。
そしたら司馬はガン無視して、雲の執筆準備をどんどん進めたんだと。
で福田が出版社の社長室に乗り込んで、俺取るのか司馬取るのかどっちか選べコラって迫ったらしい。
そもそも、司馬はあとがきで「この本は9割方史実だよ」って書いてるじゃない。 でどこが史実だオラって本筋の
歴史学者から総ツッコミ入ったら「いや俺が書いたのは小説だよ」って言ったり。
そりゃ、小説だから幾らでも嘘ついてもいいけど、こういうのはあんまり好きじゃない。